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2020. 06. 30  
先の主日はローマ1:28-32を分かち合いました。説教録画はこちらです。湘南恩寵教会2020年6月28日主日礼拝説教 ローマ1:24-32②「悪いと知っているのに」

「主の十字架の愛が迫る説教でした」と、編集してくださった長老のご感想です。説教者自身、主イエスから魂に触れていただいた感触が、今も残っています。ぜひ、たくさんの方に聞いてほしいと思います。

改めて28節を振り返ると、「彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。」

原文を見ると「彼らが神を知ることを“役に立たない”と考えたので、神は彼らを“役に立たない”心に引き渡されました。」という具合に、「役に立たない」という言葉を重ねて、皮肉な言葉遊びがされています。

「神を知ることは役に立たないと考えた」というのは、「自分たちにとって不合格、必要ない」と判断したということです。

被造物である人間が、造り主である神様に対して「あんたの存在は不合格!!」とつきつけるなんて、なんと身の程知らずなサカサマ状態・・。

こういう傲慢に対して、神は今、これ以上何を言っても無駄だからと、ほったらかしにして静観しておられる。それが先週から確認してきたことでした。

そうして人間は、「役に立たない、無価値な、くだらない」心に引き渡され、その心のおもむくままに、「してはならない」ことを繰り返しながら、どんどんと破局をおのれへとたぐりよせている。それが、パウロによる世界の見方です。


共に祈りましょう。

主よ、あなたがいるのかいないのかと、問いかける私たちの弱さを憐れんでください。あなたが生きて存在しておられることを、今日もはっきりと教えてください。また、あなたが要るのか要らないのかなどと問う、私たちの愚かさを赦してください。まるで、あなた無しでも生きていけるかのように、傲慢になってしまった時代です。でも私は知りました。あなたが共にいてくださらなければ、私はもう一歩も歩けないということを。
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2020. 06. 28  
2020. 06. 26  
次の主日も、先主日と同じくローマ1:24-32を分かち合います。特に後半の28節以下です。

人間の欲望が暴走し、社会は病み、壊れ始めていく。その病んだ世界の象徴としての性的な倒錯が取り上げられたのが、前半部分でした。

後半は、もっと私たちにとって身につまされる、悪しき心から生じる小さな罪が問題にされます。

自分の中にある「むさぼり、悪意、ねたみ、陰口、いじめ・・・」といったことと、向き合うように導かれます。

当然のことながら、パウロはこれを全人類に共通する罪の問題だと考えていますが、「いや、そんなことはない。人間はみんなこんなに悪くはない。善良な人もいっぱいいる」と言いたい方もいるかもしれません。

でも、たしかに人間的な尺度では善良な人はたくさんいるのですが、神の尺度には足りません。

また、面白いものですが、そういう善良な人ほど、ここに示されているような悪徳表とちゃんと向き合って、自分はまさしくこれに当てはまると、おのれの罪を嘆くものです。

「私は、こんなに悪くはない」と主張される人を、私はほとんど信頼できません。

あるいは、こういうこともありますね。「自分はまさしくこれに当てはまる」と認めるのはいいのですが、まるで開き直ったかのように、いつまでたっても1ミリたりとて行動が変わらないクリスチャン。

そういう私が、そういうあなたが、本当にこの悪徳表と向き合っているのかどうか。神と向き合っているのかどうか・・・。


共に祈りましょう。

主よ、今日の一日、願わくは、怒ることなく、ねたむことなく、人を軽んじることなく、偽ることなく、何より主よ、あなたから逃げることなく、歩むことができたら・・。主よ、愛を満たしてください。キリストの愛を満たしてください。このうつろな器に、キリストの赦しと平和を満たしてくださって、悪しき心をきよめてください。
2020. 06. 25  
先の主日にローマ1:24-32を分かち合いましたが、説教題は「ほったらかしにされたこの世界」でした。

ユニークな題ですねとの声もいただきましたが、関東の方にはニュアンスが伝わりにくいでしょうか。

神様が、「お前たちが私を必要ないと言うのなら、それでいい、・・・もう、好きにすればいい」と、罪の世界を突き放された様を、表したいと思いました。

「そこで神は、彼らが心の欲望によって不潔なことをするにまかせられ(1:24)」

「神は彼らを恥ずべき情欲にまかせられました(1:26)」

「神は彼らを無価値な思いに渡され(1:28)」

このように、悪しき欲望に「まかせる、引き渡す」という形で、神は今、あえて手を出さずに、世界を見つめておられます。

「落ちるところまで落ちていけ」と、思っておられるのかもしれません。そう考えると、大変に恐ろしいことです。

私たちの時代は、どこまで落ちていくのでしょうか。

私たちそれぞれもまた、どうにも止められないような欲望の暴走によって、してはならないと分かっていながらも過ちを繰り返してしまっている・・、そういうことが密かにあるかもしれない。

神はそれを、ほったらかしにしながら、待っておられるのでしょう。

私たちが、「これではダメだ、自分の人生は壊れる・・」と気付いて、助けを求めるのを、待っておられるのではないかと思います。放蕩息子の父親のように。



共に祈りましょう。

主よ、あなたが助けてくださらなければ、私たちは、欲望を止めることができません。自分自身の心の制御さえできません。ましてや、この世界を覆っている構造的な欲望の暴走を、止めることなどできるはずもなく、それに呑み込まれている弱いものです。主よ、憐れみ、助けてください。キリストの十字架の血によって、私たちをきよめてください。強めてください。
2020. 06. 24  
先の主日は、ローマ1:24-32を分かち合いました。説教録画はこちらです。湘南恩寵教会2020年6月21日主日礼拝説教 ローマ1:24-32①「ほったらかしにされたこの世界」 

ここでは、人類の罪の世界というのは、アベコベの、逆さまな、ひっくり返ってしまった世界として描かれていると、申し上げました。

まず何よりも、神様との垂直な、根源的な関係が、ひっくり返ってしまってます。

大いなる「造り主」の下に私たちがいるはずなのに、私たちのほうが上に立って、自分勝手な偶像とまことの神を「すり替え」てしまっている(1:24,25)。

この逆さまな、ひっくり返った神関係。これが、偶像礼拝の本質です。

こんな漫画を書いていた人がいました。仏像やご神体を台に載せて、その前に、人間がふんぞりかえっている。

そして、「お前は神だろう。ならば、おれの願いをかなえてみろ。おれの言うことを聞け!」

まさにこれです。これが、根源的な不義であり、思い上がった人間の神関係の倒錯です。

こういう具合に、垂直な神関係がひっくり返っているから、水平な人間同士の関係も、全部ひっくり返ってしまって、もはや倫理もへったくれもない。すべて、しっちゃかめっちゃかなのだ・・。

みんなそれぞれに、「おれの言うことを聞け!」と言いたがっている。

それが、聖書の教えていることです。


共に祈りましょう。

主よ、造り主よ、私たちは本当は、あなたの言うことを聞くべきなのでしょう。でもそれが、どうしてもできないのです。あなたに対しても、他者に対しても、自分をへりくだらせることができません。それをするのが、できないというよりも、したくない、嫌だという思いがあるのです。主よ。自分ではどうにもなりません。砕いてください。このつまらぬ「おれ様」を砕いてください。
2020. 06. 23  
先の主日にはローマ1:24-32を分かち合いました。説教録画はこちらです。湘南恩寵教会2020年6月21日主日礼拝説教 ローマ1:24-32①「ほったらかしにされたこの世界」   

「御言葉が胸に迫ってきて苦しくなりました」とお伝えくださった方もいましたが、人類の不義、不信心があばかれているところです。

しばらく、このような重苦しい御言葉が続きます。これは、連続講解説教のつらいところですが、主なる神が、今このときに、わたしたちが聞くべきこととして用意してくださった御言葉なのでしょう。

なぜ今、わたしたちはこの御言葉を聞かねばならないのか・・・、そのことを一人一人それぞれに、しっかり黙想してほしいと願っています。この時代の闇を見つめながら・・。そして、自分自身の散らかった心を見つめながら・・。


さて、そういう重苦しい御言葉の中で、ひと際異なる響きをもって迫ってきたのが25節後半の「造り主こそ、永遠にほめたたえられるべき方です、アーメン」という頌栄でした。

これはおそらく、勢いあまって発してしまった、賛美の叫びであろうと思います。

パウロにとって、神がこの宇宙の「造り主」であるという認識は、一切の疑いの余地のない、絶対のものでした。

しかし、その大いなる「造り主」が、ふさわしくあがめられていない。感謝をされていない。その罪の現実に対する憤りのゆえに、思わず叫んでしまったのだと、私は思います。


共に祈りましょう。

主よ、大いなる造り主よ、あなたの手の中で、今日も星の数ほどの生命が創造され、また死んでいくことを覚えます。小さな私には及びもつかぬ、あなたの恵みのご計画にすべてをおゆだねします。パンも水も空気も、御言葉も信仰も、出会いも別れも、喜びも悲しみも、あなたがくださるすべてのことを、そのままに受け取り楽しむことのできる、すなおさを与えてください。あなたに栄光がありますように。
2020. 06. 23  
2020. 06. 19  
「神を知りながら、神としてあがめることも感謝することもしていない(ローマ1:21)」、それが私たち人類の不義であるとパウロは言います。

それどころか、「かえって、むなしい思いにふけり、心が鈍く暗くなってしまった」。

「むなしい思いにふける」、この言葉で思い出すのは、エレミヤ2:5です。

「主はこう言われる。お前たちの先祖は、わたしにどんなおちどがあったので、遠く離れていったのか。彼らは空しいものの後を追い、空しいものとなってしまった。」

列王記下の17:15もご参照ください。

「空しいものの後を追い、空しいものとなってしまった」、これは、まことの神から離れて、空しい偶像礼拝に走ったがゆえに、彼ら自らもまた「空しいものになってしまった」ということです。

詩編115篇には、「偶像を造り、それに依り頼む者は、皆、偶像と同じようになる」という、痛烈な言葉もあります(8節)。

偶像と同じようになる・・、それは「口があっても話せず、目があっても見えず、耳があっても聞こえず、鼻があってもかげず・・(5節)」というように、生きているのに死んでいるかのような、命の停止状態に陥るということです。

それは、さみしいことですね。

生きているとは、そうじゃない。生ける神の上からの語りかけに呼応して、日ごとに新鮮な思いで生かされている感動を語り、希望をもって世界を見つめ、雨音にさえ恵みの調べを聞き取り、ごちそうの匂いに胸躍らせる・・・。

そういうことではないでしょうか。

そういう確かな日常は、「神を正しく神としてあがめ、感謝する」という、健全な神関係に基礎づけられるのです。


共に祈りましょう。

主よ、大いなるあなたの御名をあがめます。あなたの前で、私は小さく、吹けば飛ぶような塵にすぎないものです。でも、あなたに生かされ、私は本当にしあわせです。主よ、感謝します。今日も、あなたが用意していてくださる、あらゆる恵みを楽しみにしています。よき出会いを、雨の日の喜びを、おいしいごはんを、そして、あなたがくださる試練をも、楽しみにしています。
2020. 06. 18  
「神の義」ということを、色んな角度から考えています。

でも、その「神の義」に真っ向から対峙するような、私たちの「不義」ということが悩ましい問題です。

それは、アダムとエバの時以来続いている、私たち人類の神様に対する根本的な「逃げ」の姿勢をいっていると思います。

罪に歪んだ私たちの世界にどこまでも責任をもって関わり、正しい関係を回復させようとしてくださる、神の愛と救いのご意志は不変です。

でもそういう神の思いをまったく軽んじて、「いや、そういうのはめんどくさいんです・・。私たちはあなたと関わりたくないのです。あなたと真剣にお付き合いして生きていくなんて、面倒でたまらない」と、神との関係を切ろうとしていく私たちの方向性の問題です。

神に対して不義理を重ねる、私たち人間の根本的な「逃げ」の姿勢ということが言われているのだと、私は思います。


この「めんどくさい」という表現が、まことに現代的で、核心を言い得ていると思うと、伝えてくださった方がいました。

私自身、聖書と新聞を両手に持ちながら、この21世紀の日本という国に生きる者として御言葉を思い巡らす中で、今は、すべてを「めんどくさい」と片付けてしまう時代なのだという思いを強くしています。

神と向き合い、自分の罪と向き合い、また神が与えられる教会という関係性にとどまり続ける・・、それは、とても不自由な重荷に感じるかもしれません。

でも、人間にとって大切なことは、いつでも必ず「めんどくさい」ものなのだと思います。


共に祈りましょう。

主よ、今、生きることのすべてがめんどくさく思えてしまうような人がいましたら、どうぞ憐れんでください。この地上の人生において、あらゆることから逃げ出したいほどに、追い詰められてしまった人もいるかもしれません。どうか憐れんでください。そしてどうか、あなたの痛いほどの愛と真剣に向き合うことへと、私たちひとりひとりを導いてください。
2020. 06. 17  
先主日の礼拝説教録画ですが、再編集をしていただいてましたので、昨日は視聴できなかったかと思います。ご容赦ください。

改めて、こちらからご覧ください。湘南恩寵教会2020年6月14日 ローマ1:18-23「神に言い訳はできない」

「神の義」ということをヘブライ語から考えると、「人格的・関係的な正しさ」という面が強く出てくるとお伝えしました。

それは、どんな時もまっすぐに、真正面から向き合ってくださろうとする神様の誠実さ、と理解できます。

そしてそれは、「どんなことがあっても罪人を見捨てない」という、神の愛、恵み、覚悟を伴うものです。


詩編71篇が、分かりやすいかもしれません。新共同訳でこの詩編を読むと、「恵みの御業」と何度も出てくるのが一目瞭然です。

この「恵みの御業」と訳されているのが、すべて「義」という言葉です。

ここでは、「義」とは、ほとんど神の「救い」ということと同じ意味でつかわれています。

この詩編では、「老いて白髪になっても、私を捨て去らないでください」との祈りが特徴的です。それは、神は決して捨て去らないでいてくださるとの確信の裏返しです。

そして最後の20節から、神によって多くの災いや苦しみも与えられたが、その深い淵から、再び神が引き上げてくださるとの確信が表明されます。

それは、幾たびも背信を繰り返し、民族の危機を経験しながらも、そのたびに神の憐れみと慈しみによって再生されてきた、イスラエル民族の確信でもあります(哀歌3:22以下参照)。

そういう風に、どこまでも見捨てないで関わり続けてくださる神の恵みの御業を、「神の義」というのです。

そういう「神の義」に対して、どこまでもかたくなに、拒み、背き、真剣に神と向き合うことから逃げようとする、そういう私たち人類の「不義」が問題にされているのです。


共に祈りましょう。

主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、あなたの義によって、いつもわたしを助けてくださり、逃れさせてください。あなたの耳をわたしに傾け、ため息さえも聞き漏らさず、あらゆる困難から助け出してください。私の不義にも関わらず、あなたの義にすがる、この図々しい祈りをおゆるしください。私も、あなたに対して義でありたい。
プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
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