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2020. 07. 31  
次の主日は、ローマ2:12-16を分かち合います。

大きな文脈を確認しますと、1:18-3:20というのは、「正しい者は一人もいない」ということを納得させるための言葉です。

それは特に、選ばれた神の民であると自認していたユダヤ人に対して、あなたたちも例外ではないと糾弾しているものです。

1章後半では、神から遠く離れた異邦人世界の、目も当てられぬような退廃ぶりがしっかり糾弾されますが、その後の2-3章にかけて、返す刀でユダヤ人を切るのです。

あなたも同じだ。外面的にユダヤ民族に属しているというだけで、中身が伴わないならダメだ、と。

ローマ2:12を私なりに解釈すると、こうなります。「神の律法を知らないままに罪を犯した異邦人は、みな滅びます。そんなことは聞いていなかったとの言い訳は成り立ちません。しかし他方で、神の律法の下に過ごしてきたユダヤ人でも、罪を犯した者は、みな滅びます。彼らは、与えられているその律法によって裁かれます。なぜなら、律法を親しく耳にしてきたということが神の前で正しいのではなく、律法の中身を忠実に行う者こそが、義とされるからです。」

こういう具合に、律法=神の教えに対して、どこまでも「正しくありえない」自分自身をちゃんと見つめよと、迫ります。

それは、3:21以降に示される「イエス・キリストを信じることにより与えられる神の義」へと、導くためです。

主日に向けて、1-3章をご確認いただければ、よい準備になると思います。

次の主日は、聖餐も予定されていますから、あの十字架におけるイエスの滅びについて、思い巡らすこともおすすめします。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの御前で、自分が正しくないということを認めた時から、正しくありたいと願うようになりました。でも、正しくありたいと願えば願うほどに、どこまでも正しくありえない自分に気付きます。我がために死んでくださったキリストの十字架が重いです。主よ、感謝します。
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2020. 07. 30  
今週はアブラハムの生涯を思い起こすことで、神様への絶対的な信頼へと、毎日導かれています。

主は決して悪いようにはなさらない。そういう確信です。

「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものを私たちに賜らないはずがありましょうか。(ローマ8:32)」

神はアブラハムには、独り子をささげることをさせませんでした。でも、ご自身は、私たちのために独り子を惜しまずささげてくださいました。

この神の愛を、いつでもどんな時も、私たちは信頼します。

また、神の深遠な、私たちにはまったく想像もつかないような、恵みのご計画が存在するということを信じます。

そのご計画は、「イエスの十字架という完全な悲劇を通ることによって、私たちの命の道が開かれていく」ということに象徴される、驚くべきご計画です。

私たち一人一人の生涯にあっても、地上の悲劇は与えられる時はあり得ます。

いやさらには、完全なる悲劇によって人生の幕を閉じることさえあるかもしれない。

大変な拷問を受けて死んでいった信仰者たちがいます。私たちもまた、難病に苦しんだり、経済的困窮に悩んだり・・・、安寧な生と死とは程遠い人生が用意されているかもしれない。

それでも、主は決して悪いようにはなさらないと、私たちは信じ得るのです。

私の地上の人生がどのようになろうが、そんな小さなことで、神の愛と恵みのご計画を、疑いはしない・・・、そういう信仰は、非人間的に聞こえるでしょうか?

そういう腹の据わった信仰が、私自身、まだ固まっていないものです。試練が与えられれば、情けないほどに動揺してしまう。

でも、「私の地上の人生がどのようになろうが・・」と思うことができるようになってきたことで、前よりも、私の人生はせこくなくなってきたように思います。平安も、喜びも、生きる勇気も、増し加えられているのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もあなたを信頼いたします。あなたの見ておられる、宇宙の神羅万象の中で、私の生涯はいかほどに小さなものでしょう。でも、その小さな生涯を、ご自身の瞳のように愛してくださるあなたに、信頼いたします。私たちではなく、私たちではなく、主よ、あなたの御心がなり、あなたの大いなる救いのご計画が実現しますように。
2020. 07. 29  
創世記22章のイサク奉献の記事を、アブラハムの神への深い信頼という視点から読んでいます。

「ささげるべき小羊は、きっと神が備えていてくださる」、この言葉の通り、神は本当にイサクの代わりの羊を用意していてくださいました。

しかし、アブラハムはそれを知っていたはずがありません。それを期待していたということでもなかったと、私は思います。

何も見えなかった、分からなかったのです。分かるのは、イサクをささげよとの神の命令だけです。だから、ただそれに従おうとしたというだけでした。

たとえイサクを失ったとしても、神にはその先が見えている。自分には絶望しか見えない状況にも、神には希望が見えている。そして、その希望の計画を必ず実現していかれると、信頼していたからです。

あまりにも非人間的にも思えます。こういう服従を、決して人間同士で強要すべきではありません。

教会や牧師が神の名のもとに、「これは神の命令です、従いなさい」と強要することがあってはなりません。

あるいは自分にも過度の重圧をかけるべきではないのです。例えば、異端の教えでは、人間よりも神に従うべきという声が前面に出すぎて、家族が崩壊してしまったり、社会的生活が成り立たなくなってしまうケースもあります。

そのような盲目的な服従が求められているわけではありません。私たちが学ぶべきは、ただどんな時も、「神が備えていてくださる」とまっすぐに信頼し、神に従うということです。

合理的判断を捨てて目を閉じるという方向ではなく、合理的判断をなしえないほどに先が見えない状況の中でも、神が見ておられる光を信じて目を開くという方向で考えてほしいのです。

共に祈りましょう。

主よ、あなたはアブラハムに「自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言ってくださいました。しかし主よ、それはあなたにこそふさわしい言葉です。私たちのために、大切な独り子をささげてくださったあなたに、今日も信頼いたします。あなたがすべてを最善に備えてくださいます。我が魂よ、主をたたえよ、主の御計らいを何一つ忘れてはならない(詩編103)。
2020. 07. 28  
先の主日礼拝は、子ども中心礼拝として、いつもよりも一層和やかな、神の家族としての喜びに包まれました。そのため、今週は説教録画を作成しておりませんので、ご了承ください。

私たちの信仰の父であるアブラハムの生涯について学びました。

特に、その人生のクライマックスとして創世記22章のイサク奉献の記事は大切です。

彼が神から「試された」がゆえの苦悩と葛藤に注目されることも多いですが、私は、彼の無言の服従、そしてその根底にある神への絶対的な信頼ということに注目しました。

テキストの中心にあるのは、「焼き尽くすささげものの小羊は、きっと神が備えてくださる」とのアブラハムの言葉です。

「備える、用意する」、これは原語では「見る、見出す」という言葉です。

「焼き尽くす献げ物の子羊は、神がちゃんとご自身のために見ておられる」が原語です。

ここからおもしろいことが分かります。神が備えてくださると信じるということは、神がすでに私たちには見えないはるか先まで見通しておられると信じるということです。

そして、私たちには分からなくても、神は神ご自身のために、ご計画の実現のために、必要なことをちゃんと見ておられると、信じるということです。


共に祈りましょう。

主よ、今日も新しい一日が始まろうとしています。何が起こるのか不安です。思いもよらないトラブル、交通事故、人間関係の破綻、あるいは地上の生涯の終わりが訪れるのかもしれません。主よ、願わくは、それらを遠ざけてください。しかし主よ、それよりも、どんなときにもあなたの愛に信頼し、あなたの全能に信頼し、平和のうちに、落ち着いて、すべてのことに取り組むことができるようにしてください。希望と平安をもって死んでいくことができますように。とはいえ主よ、私たちはそんなに強くありませんから、どうぞ守っていてください。すべてを備えていてください。

2020. 07. 24  
自分の内にはほんとうの信仰などあるのだろうかと省みつつ、キリストが与えてくださった信仰のかけらを大切に育んでいきたいとの願いをもって過ごしている今週です。

自分がニセモノの信仰者だと思うのは、ホンモノになりたいからです。

その思いは、聖霊がわたしたちの内に起こしてくださっている信仰です。あなたの内には信仰があるのを、神は見ていてくださいます。

次主日は、子ども中心礼拝で、「神に生かされた信仰の勇者たち」シリーズの第一弾として、アブラハムの物語を分かち合います。

私たちにとって、ホンモノの信仰者としての模範であるアブラハム。

でも、あのアブラハムの信仰もまた、神様によって生み出され、だんだんと育まれていったものです。

彼はイサクの誕生の約束がとても信じられなくて失笑してしまったり、完全な信仰者からは程遠い姿をさらしています。

でも、そんなアブラハムが、それでも神様に導かれるがままに歩んでいく、その歩みの中で、信仰を豊かに育てられ、深められ、「信仰の父」となっていくのです。

その真骨頂が、創世記22章のイサク奉献の物語にあらわれてきます。

ところで皆さんは、あのイサク奉献の記事を、どのように読むでしょうか。どこに中心を置いて読んできたでしょうか。「試された=試練」にあってのアブラハムの苦悩と葛藤ということが言われます。

イサクという宝物を偶像視さえしてしまいかねなかったアブラハムが、改めて神へのひたむきな信仰に導き返されたのだという読み方もあります。

私の場合は・・・。主日の礼拝をお楽しみに!!

共に祈りましょう。

主よ、昨日今日とお休みをいただいている方も多くいます。肉体のリフレッシュや、家族との豊かな交わりが与えられ、改めて、あなたがくださるすべての恵みと喜びに目が開かれますように。今日も勤労に従事する方、学びや部活に励む子どもたちに、恵みの導きがありますように。いつでもどんなところでも、あなたと共に生きる喜びに満たされますように。私たちに、あなたを信じる喜びを与えてくださって感謝します。
2020. 07. 23  
先主日の説教録画はこちらです。https://youtu.be/tbjDa92Vf40 教会の皆様の反響の大きかった説教でした。

印象深かった御言葉は、「神は人を分け隔てなさいません(11節)」です。

「分け隔てしない」これは、「顔を取ることをしない」、すなわちうわべだけで判断しない。神は心を見られる、ということです。

見せかけの敬虔は、見破られます。イエス様も繰り返し警告されました、小手先の偽善では意味がないのだと。

神は心を見られます。キリストとぴったりくっついて生きていこうとする真の信仰かどうかだけが、裁きの物差しになるのです。

そこには「ユダヤ人もギリシア人もない」。つまり、「割礼を受けたユダヤ人だから」と優遇されるような特権や、安全地帯はありません。

私たちに当てはめると、洗礼を受けて教会に籍があるというだけでは、ただちに救いの保証とはならないのです。

大事なのは、真の信仰があるかないか、です。

逆に言えば、その信仰があれば、「ギリシア人」でも救われる。すなわち、これまで神から遠く離れていた人、背き続けてきた人でも、あるいは、人の目にはあまり敬虔には見えないような人でも・・・、ということです。

そうだとすると、たじろぐような思いにもなります。自分の内に、そんな信仰があるのか・・・と。

それは、誰もがそうでしょう。自分の信仰に自信がある人なんて誰もいないのだとも思います。

自分で自分が信じられないから、イエス様を信じて、この小さな人生を明け渡す、それが信仰ということです。そういう信仰を、神はちゃんと見ていてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、私の内には確かなものは何一つありません。あなたを信じる心も、絶えず揺さぶられ、くじけてしまって、本当に情けないものです。「信仰のないわたしを救ってください」との祈りを、私にもなさせてください。この祈りをお許しください。暗い雲が立ち込めるような今の時に、この祈りの回路を通して、主よ、天からの不滅の希望の光を、注いでください。
2020. 07. 22  
先の主日の説教録画はこちらです。2020年7月19日湘南恩寵教会主日礼拝 ローマ2:5-11「神の裁きは恐ろしく平等」  教会の皆様から反響の大きかった説教です。「こんな自分で本当に救われるのだろうか」と後ろめたさを覚えておられる方に、ぜひ聞いてほしいと思います。

ローマ2:7には、「忍耐強く善を行い、栄光と誉れと不滅のものを求める者には、永遠の命をお与えになり」とあります。

「忍耐強い」というのは、聖書の言葉遣いの中でとっても大切なことで、いつも「希望」とセットです。

それは、「希望を持ち続ける力」です。

雨が降ろうが槍が降ろうが、考えてもいなかった感染症の脅威に悩まされようが、どんな逆風にも負けないで、キリストを信じて、朗らかに、顔を上げて、心折れずに、彼の教えてくれたように生きるということです。

神を愛し、自分を愛し、隣人を愛し、敵さえも愛し、善をもって悪に打ち勝つ、そういうキリストの道にとどまることです。

思うようにいかないことが続くと、やけくそになってしまって、「不義不正」を心の中に呼び込んでしまうことがありますね。

自分自身を説き伏せるようにして、「悪」に走ってしまう。

でも、そういう風にして悪に負けたままでいないで、キリストによって勇気を得て、それを打ち負かすような自分でありたい。

「主よ、助けてください、打ち勝たせてください」と祈りながら、キリストにぴったりくっついて歩んでいこうと願う心。

今、そういう心があることに、自分で気付いたなら、それを大事にしましょう。

神は、その心を見ていてくださいます。


共に祈りましょう。

主よ、今日の日、最後まで希望をもって、キリストと共に生きていくことができるように、聖霊の導きを与えてください。今、地上のトラブルで心が折れてしまいそうな人に、あなたにある赦しと慰めと、真に価値あるもの、不滅のものを求める、まなざしの高さを与えてくださって、その心を天へと引き上げてください。
2020. 07. 21  
先の主日はローマ2:5-11を分かち合いました。説教録画は、一生懸命編集してくださってますので、もうしばらくお待ちください。

「神はおのおのの行いに従ってお報いになります(6節)」という御言葉が鍵です。

私たちは行いによって救われるわけではありません。自分では自分の救いのために何もできない。キリストを救い主として、ただ信じるだけでいい。これが大前提です。

しかし、「行いの伴わない信仰」というものはありえません。信じるなら、生き方は変わらざるを得ません

「キリストを信じる」とは、神社でお守りを買うこととはわけが違うからです。

「キリストを信じる」とは、キリストの教えてくださることに全面的に信頼して、彼の示される道を、彼とぴったりくっついて歩み始める、生き始めるということです。

とても具体的に考えますと、私の場合は、キリストの道を教えてくださったたくさんの恩師との出会いが与えられました。

洗礼を授けてくださった牧師をはじめ、慰め、励まし、また訓練を施してくださった、たくさんのすばらしいクリスチャンの方々です。

そういう出会いを喜びながら、彼らの指導を信じて、実行することで、生き方そのものが変えられてきました。

そこには常に葛藤もあり、古い罪深い自我との戦いもあります。誘惑に負けることもしばしばです。

でも、神はそういう出会いの数々を通して、私の人生や生き様を、少しずつ整えていってくださっています。

6節の御言葉で「行い」と訳されている言葉も、仕事や業績、その人の一生涯全体のありようということを含む言葉だと言われます。


共に祈りましょう。

愛する主よ、あなたが私の内に与えてくださった聖霊の導きによって、今日も私を聖化してください。自分の信仰に、まったく自信がありません。だから、助けてください。信仰と希望と愛を増し加えてください。私の心の奥底にある、自分ではどうにもならない罪深さをきよめてください。そして、私の心の奥底にあなたが起こしてくださった、信仰者としての理想を、どうか実現してください。
2020. 07. 17  
次主日は、ローマ2:6-11を分かち合います。

「神はおのおのの行いに従ってお報いになります(6節)」とあります。これは、「神が正しい裁きを行われる怒りの日(5節)」、すなわち最後の審判の時のありさまを言います。

こういう怒りの裁きということは、憐れみ深い神様に似合わないではないかと思う方も多いかもしれない。

今週確認してきたような、罪人の悔い改めを待ち続ける「神の豊かな慈愛と寛容と忍耐」ということ。

私たちがどれだけ神を無視したり、あざけったりして、神の怒りを蓄えていったとしても、その怒りよりもなお大きい圧倒的な神の憐れみで、神はずっと待ち続けていてくださる。

そういう意味で、確かに「神の憐れみ」は限りなく大きい。それは真理です。でも、そうだからと言って、最後の審判はもう無しということにはなりません。

悪を悪のまま放置できない神の正義が、すべてにけりをつけられる終わりの時が来る。

これもまた、聖書に示されている真理であり、私たちはその両方をただそのまま受け取るしかないのです。

神の無限の愛と正義の怒りのせめぎあい。それは、私たちが合理的に整合性をもって理解できる「論理」を超えた、神の神秘に属する奥義です。

その葛藤は、すでにあの十字架において明らかにされていました。

神がこの罪深い世界を想ってくださる、そのあまりに複雑で切なく深い感情は、私たちが理解できる程度のことであるはずがないのです。

共に祈りましょう。

主よ、大いなる、大いなる御名をあがめます。聖書を通して、あなたの深遠な御心を垣間見させていただきながら、終わりの時の裁きの厳しさを思います。キリストを信じる者は救われるとの約束に、ひたすらにすがりつきつつ、その時に、「よくやった、忠実なしもべよ」と、少しでもあなたにほめていただきたくて・・。この恥じるべき存在が聖霊によってきよめられることを、今日も切に願います。

2020. 07. 16  
先主日はローマ2:4-6を分かち合いました。礼拝説教録画はこちらです。https://youtu.be/NDLm3veO100

罪人の滅びを望まず、悔い改めを待っておられる神の「慈愛と寛容と忍耐」ということを、深く考えさせられました。

神は待っておられます。この時代に生きる私たち一人一人が向きを変えるのを。

私たちは今どういう時代を生きているのか、後代の評価を待つよりありませんが、困難な時であることは間違いないと思います。世界的規模で、人類が正念場を迎えているような時代です。

私たちはしばしば問いかけます。神がおられるならどうしてこんな悲惨なことが・・、と私たちは問うのです。

「神がいるなら助けてくれよ」と、神を疑い、責めるのです。

でも、神が極めてよいと絶賛されたこの被造世界を、散々に食い散らかしてきたのは私たちです。神のかたちに創造された人間の尊厳を、互いにおとしめあってきたのも私たちです。

そういう私たち人類の暴走に、神は怒り悲しみながらも、私たちの悔改めを待って忍耐しておられるなどとは、誰も考えはしないでしょう。

そんな聖書の教えは、誰も聞こうとしないかもしれません。でも、神は待っておられます。

それは、傍観者の立場で静かに観察しておられるのではない。神は決して弱者の悲しみを傍観したりしておられない。誰よりも深く悲しみながら待っておられます。

世界がこわされていく、人間がこわれていく、誰よりもそれを悲しんでおられるのは神です。

悲しんで、胸を痛めて、立ち返れ、私の下に立ち返れと、ずっと手を差し伸べて、待っておられるのです。


共に祈りましょう。

主よ、今だけでなく、そしてこの日本の国だけでなく、いつでも私たちは、あなたから遠く離れた道を選んで、歩んできたのだろうと思います。キリストの教会と名乗る者たちさえも、そうでした。主よ、私たちはやはり、あなたのもとに帰らなければ・・。帰るのを赦してください。そして、わたしの心が、あなたの御心に沿うものとなりますように。
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プロフィール

茅ヶ崎の牧師

Author:茅ヶ崎の牧師
茅ヶ崎にある改革派教会、湘南恩寵教会の牧師です。
茅ヶ崎駅南口から徒歩8分の教会です。
御茶ノ水聖書学院の聖書科講師をしています。
ネット番組「がっつりコミュニケーション」のパーソナリティーです。

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