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2018. 01. 19  
今週はサムエル記上16章の、ダビデの登場にまつわる物語に教えられて、一週間をはじめました。

家族の中でも疎んじられていたような末っ子のダビデを、「これがその人だ」と、王に選ばれた神様。

「容姿や背の高さに目を向けるな。・・・(神は)人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。(サムエル上16:7)」

大変印象的な御言葉です。


面白いのですが、そうは言いつつも、少年ダビデは大変容姿もよく、姿も立派だったと書いています(12節)。

結局見た目も大事なの・・?と言いたくもなりますが、そういうことではなくて、心のよさは見た目にもあらわれてくるということでしょう。

特に、「目が美しい」というのはそうです。聖書においては、目は生命力のバロメーター。信仰の命に満たされている人は、目が輝くのです。

そういう意味で、見た目というのは、やっぱり人間同士の間ではある程度重要ですね。


ただしかし、神様の目には、すべてはお見通しです。その目の輝きの奥にある、罪の闇を見透かされます。ダビデとて、同じです。

思い出した聖句は、ヨハネ2:23-25です。イエス様のなさる奇跡に驚き、信じますとたくさんの人がついてくる。

でも、イエスは「彼らを信用されなかった」と書いてあるのです。なぜなら「イエスは何が人間の心の中にあるのかをよく知っておられたからである」と言われます。

恐るべき言葉です。


新聞に新興宗教の広告がありまして、「神様を信じるのでなく、神様に信じられる人間になる」と書いてあったのを思い出します。

なるほど、なかなか面白いことを言うなと思いましたが、聖書の世界観とはまったく違いますね。

人間の罪に対する理解が、浅すぎるのです。人間は、決して神に信用していただくことなどできません。

こういうところが、人間が作り出した神と、人間を創り出した神の違いのようにも思います。

聖書というのは一面において、人間というものの真実の姿について、神が教えてくださっている書物だと言う事もできます。

そしてそこには、神にまったく信用されない、わたしたちの罪の闇が見透かされています。

でも、そのすべてをご存じの上で、全部引き受けて、全部背負って、赦し、愛し、用いてくださる。

それが、キリストの十字架の犠牲において示された、神様の救いなのです。


共に祈りましょう。

主よ、私の知らない私自身の悪い心もよい心も、すべてを知っていてくださるあなたの御手に、この一日をおゆだねします。主よ、どうか今日の私の、すべてを赦し、すべてを愛し、すべてを用いてください。
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