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2018. 09. 21  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。今日は2:15、かなり解釈を込めて意訳してみます。

<私訳>「こういう道徳的な人々の存在は、“律法の要求するところのことが、律法を持っていない人々の心にもある程度は記されている”ということを、確かに証明しています。

彼らが持っている、いわゆる『良心』というものも、そのことの証明になります。その『良心』に基づいて、互いに咎めあったり、弁明し合ったりもしているのです。」


「良心」とは、良い心、正しい心ということではありません。「正しい者は一人もいない(ローマ3:10)」のです。

そうではなくて、それは「善悪の自己批判能力」でして、自分自身のことを客観的に見つめて、そんなことしていてはいけないでしょと警告を発するセンサーです。

つまり、良心の呵責を覚えるということですね。

そういう呵責ゆえに、互いに咎めあったり、弁明したりしている・・・。

これは、文字通り、二人以上での議論の様子だと思いますが、一人の人間の中での内なる葛藤を表しているという解釈もあります。

つまり、「ダメじゃないか、もうこんなことやめよう、良くないと自分でも分かってるだろう」と自分を責めながらも、

他方で「これくらいみんなやってるじゃないか、ストレス発散に仕方ないじゃないか、組織のために仕方ないじゃないか」などと、言い訳をしている。

「聖書の教え」を知らないとしても、そういう倫理的・道徳的な葛藤が、実は、どんな人にもあるはずです。

それは、私たち人間が本来、「神のかたち」に造っていただいた倫理的・道徳的存在だからです。



人間というのはみんな、神様に対するなんらかの『後ろめたさ』を抱えて生きているものだと、私は思います。

その『後ろめたさ』が耐え難くて、考えないようにしようとする人や、「知ったことか!」と開き直る人が多い。

しかし、神が、イエス・キリストにおいて表現して下さったメッセージは、お前の『後ろめたさ』を赦し、受け入れ、癒す。だから、罪を認めて、こっちに来なさいというものです。

みなさんは、どちらの道を選ばれるでしょうか。


共に祈りましょう。

憐れみと赦しに富みたもう主よ、あなたを裏切り、隣人を裏切るような自分の振る舞いに、人知れず悩んでいる兄弟姉妹がいましたら、どうかその罪との戦いを支えてください。まだあなたを知らない人々で、良心の呵責に苦しんでいる者も多くいるでしょう。あなたのもとで、赦しにあずかり、新しく生き直すことができますように。
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