FC2ブログ
2018. 12. 21  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。昨日に続いて、21ー22節の私訳を紹介します。

<私訳>「しかし今や、『律法を行いなさい』ということとはまったく別のかたちで、神の義が明らかにされました。それは実は、モーセ五書や預言者たちの書、すなわち『聖書』において、すでに証言されているものなのです。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であり、信じる者たちすべてを対象としています。そこには差別がないのです。」


「神の義」とは何なのかについて、悩みながら学んでいます。

昨日の私の解説を読んで、すーっと一本筋が通ったように思えて分かりやすかった反面、何か物足りない。「神の義」というのは「責任感」というだけでは言い切れないのではないか、というご意見もいただきました。

ごもっともと思います。だからこそ、私も悩みます。文脈によっても意味合いが異なってきます。

伝統的には、「義」というのは法廷の言葉遣いで、「義と認められる」=正しい、無罪=救われるということと理解されます。

この21-22節での「神の義」ということも、「神の救い」と言い換えると分かりやすいかもしれません。

くどく言えば、「あなたは正しい・合格と認められるまでの方法」ということです。


そのうえで、私が皆さんとともに何とか把握したいと願っているのは、「義」ということの人格的・関係的な面です。

ご批判を恐れずにいえば、「義」とは、任侠の言葉遣いでいうところの「義理」とか「仁義」に近いと思います。

親分が子分となった者を命を懸けて守る、これは親の「仁義」ですね。

神様はそのようにして、子分である私たちに対する「義理」を通されます。

同じように、子分となった者も親分に対する「義理」を通すことが求められます。それが筋です。

その「義理」を通す方法として、十戒に代表される神のルールを守るということが、全人類には求められるというわけです。

でも、それができないのです。しかし、神はそういうダメな子を見捨てません。絶対に見捨てません。

それは親の「義理」を通されるからです。だからこそ、新しい関係性を提示してしてくださいました。

イエス・キリストが私たちを代表して、「義理」を果してくださるから、そのキリストにつきなさいという提案です。

私たちは、兄貴であるイエス様の仲立ちによって、子分としての身分を確立され、親分の愛を受けます。

これはもう、ただありがたいことです。こんなにあたたかい恩情に対して、「義理」を果さないわけにはいきません。

「もうそんな必要はない」と親分はおっしゃるけど、いただいた恩に感謝で報いたい。それがクリスチャンの善い行いのモチベーションになる。すなわち、感謝の応答ということです。

長くなってすみません。少しでも理解の助けになるといいのですが・・。


共に祈りましょう。

主よ、あなたの子としていただいたこの身の幸いに感謝します。父よ、今日もお守りください。私もあなたをどこまでも大切にいたします。


スポンサーサイト



NEXT Entry
2018年12月22日 クリスマスを祝う
NEW Topics
2019年10月18日 あなたも同じことをしている
2019年10月17日 弁解できない
2019年10月16日 人類の罪
2019年10月15日 石川ヨナライブにて
2019年10月11日 イザヤ51:4-5
Comment
Trackback
Comment form
 管理者にだけ表示を許可する
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
FC2ブログへようこそ!

検索フォーム
カテゴリ
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR