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2019. 01. 29  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。先週は風邪を引いて休んでしまいました。信仰生活におけるプライドの問題を考えてみようと言って、そのままになってましたね。

改めて、3:27-28を読み返してみましょう。

<私訳>「それでは、誇りはどこにあるのか?そんなものはもうとっくに締め出されたのです。

どういう原理でそうなるのか?行いの原理ではそうならない。でも、信仰の原理によってはそうなるのです。

なぜなら、人は律法の行いとは関係なく、信仰によって義とされると、私たちは考えるからです。」


この言葉は、直接的には、ユダヤ人の宗教原理において大切にされてきた「誇り」は、もう役に立たないのだよと言うものです。

今日はもっと広く、私たち人間が持ちたがる「宗教的誇り」のこととして考えてみましょう。

それは、私たちの側での「手応えがほしい」とか「納得したい」とか、あるいは「自慢をしたい」という抑えがたい欲求の問題です。

貧しい人への施しに励んだり、戒律を厳格に守ったり、トーラー(聖書)と祈りに驚くほど熱心だったり・・、そういう立派な生活で人々の尊敬を集める。

パウロはそうやって、プライドを満たしてきました。

それを手放すということ、これはなかなかどうして、難しいことです。

私たちはどうしても、そういう「自慢をしたい」という欲求から抜け出せません。

例えばパウロは、コリント書では「誇るなら自分の弱さを誇ろう」と言って苦労自慢を始めますが、これだって紙一重です。

いや、パウロ自身はきっと分かっているのだと思います。そういう苦労自慢も危険であり、本来すべきではないということを。

でも、そういうことが説得力を持ってしまう私たちの世界の悩ましさ・・。

そして、そういうところでしか、信仰者としての「手応え」や「納得」を得られない私たちの弱さ・・。


ただ「信仰によって」義としていただくというのは、そういうものを全部手放すということと表裏一体なのですね。


共に祈りましょう。

主よ、今日の一日が終わったときに、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです。(ルカ17:10)」と、言うことができる私たちでありますように。」


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