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2019. 02. 21  
ローマ書を一節ずつ読んでみる。もう一度だけ4:9-12から考えます。

「割礼」があることが救いを保証するわけではない。信仰がはじまりなのだ。

アブラハムも、まず「信じた」ということが先であった。

まったく先が見えない中で、ただ神の約束を信じることによって、神との深いお付き合いの関係(=契約)へと入らせていただき、遥かな旅路をはじめたアブラハム。

そういう彼のことを、神は「義」とみなしてくださいました。

そして、その十数年後に、アブラハムは「割礼」を受けました。それは、救いに入るためではなく、もう救われているということを保証されるためでした。


こういう「割礼」の話は私たちには縁遠く思いますが、「洗礼」のことを考えるとよく分かると思います。

「洗礼」は、心の包皮を切り捨てる「キリスト教的割礼」という理解ができます。

洗礼入会式は非常に大切で不可欠ですが、それは救いに入るための手段・方法ではなく、すでに「信仰によって義とみなされている」人に、救いを保証するものです。

いうなれば、太鼓判を押していただくということです。「義」印のハンコが押されるのです。

中身が醤油であることを証明するために、醤油というラベルを貼るということだとおっしゃる先生もいました。

大事なのは中身であって、中身がソースに変わってしまうのなら、偽り者になってしまいます。ラベルが絶対的ではありません。

しかしこのハンコを押していただくことで、私たちは、自分が「義とされた神の子なのだ」と何度でも確認し、信仰の歩みを励まされます。

実に「洗礼」は、わたしたちの弱さを励ますために、主が与えてくださったしるしなのです。

「お前は救われた神の子だ。新しく生きよ」との、神からの後押しなのです。


共に祈りましょう。

主よ、キリストを信じることへと招かれたことを感謝します。あなたを知り、あなたと共に生きる喜びへと招かれたことを感謝します。義としていただいたことを感謝します。義とされた者として、新しく生きようとするすべての者たちを、励まし祝福してください。



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