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2019. 09. 11  
先主日の使徒言行録21:1-16の説教を振り返ります。

どうしてもエルサレムへ向かうとの決心を変えないパウロでした。

引き留めようとしていた者たちも、最後は「主の御心がなりますように」と祈って、口をつぐみます。

イエス様もあのゲツセマネの祈りで、もだえ苦しみ悩みつつ、最後には「主の御心がなりますように」と、お委ねになりました。

この祈りは、どういう心境で祈るものでしょう?

「もうどうしようもない、仕方ない・・」というあきらめや、悲壮感がこもった祈りでしょうか?

そういう面もあるかもしれません。

でも、深いところでは、主なる神への信頼に満たされていてこそ、祈り得る祈りでしょう。

神様の「御心」は、わたしたちの想像をはるかに超えて、時に、考えることもできないストーリーが用意されています。

あのイエス様の十字架の死の向こうに、復活の命の朝が明け染めるというストーリーも、私たちには考えることのできないものでした。

でも、確かにそういうことが起こった。これこそが、キリスト者の希望の源です。

十字架の苦難の道は、復活の命の希望に必ず通じていく。

どんなに苦しみの道を通っても、いや、自分の十字架を背負うような苦しみの道を通ってこそ、その向こうに、復活の命の世界が開かれる。

私たちクリスチャンは、そういう希望に生きる人種です。

二つの道のどっちを行けばいいのか・・「主の御心」がはっきりと示されることなんて、無いと思います。

だから、パウロもまた悩みました。でも、彼は希望を持っていた。

エルサレムへの苦難の道の向こうにこそ、主が開いてくださる栄光の将来がある、という希望です。

私たちも、いつだってそういう希望を信じて生きるのです。

「主の御心がなりますように」と祈る時、私たちの心にあるべきは、この希望なのです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちにはあなたの御心のすべては分かりません。分かるはずもありません。でも、あなたが与えてくださった確かな希望があります。十字架の死は、復活の命に通じていくという希望があります。それで十分です。今日、何があっても、この希望から離れないようにしてください。
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