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2016. 03. 18  
イザヤ53章の「苦難の僕の歌」を分かち合って、十字架の主イエスの御苦しみを思い起こしています。

53:4,5「彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいるのだ、と。

彼が刺し貫かれたのは/わたしたちの背きのためであり/彼が打ち砕かれたのは/わたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによって/わたしたちに平和が与えられ/彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」


人々から軽蔑され、苦しみを負われる「苦難の僕」であるイエス様。

そのようなイエス様の姿を見た人々は、それは彼の罪にふさわしい報いであり、神の裁きだと思いました。

メシアと自称して神を冒涜した、この男は裁かれるにふさわしい。「神の手にかかり、打たれているのだ」・・・と。

しかしその苦しみが、まさか「わたしたち」の身代わりであるのだなどとは、誰にも考えおよばないことでした。

「わたしたち」の代わりに、「わたしたち」のために、「彼」が打たれ、刺し貫かれ、傷を受けるのです。

その「彼」の滅びを通して、「わたしたち」は滅びを免れるのです。


以前に、十字架で苦しむイエス様のことを「おかわいそうだ」と言っておられた未信者の方がいらっしゃいました。

でも、残念ながらそれは筋違いの同情なのです。

「かわいそう」という言葉をあえて使うとするなら、むしろイエス様のほうが、「わたしたち」のことを「かわいそう」と思ってくださって、身代わりになってくださったのでした。

あの主イエスのみじめさは、「わたしたち」の本当の姿なのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたが十字架において示してくださった、限りない憐れみを感謝します。そのあなたの憐れみを、また憐れまれる自分自身を受け入れることができない、人間のかたくなさもあります。どうか主よ、そのような私たちをも、なお深く憐れんでくださって、その病を担ってください。その苦しみを担ってください。
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