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2016. 06. 28  
昨日の学びで気づかされたことを分かち合います。

ルカ福音書24章13節から、「エマオ途上」と呼ばれるくだりがあります。イエス様の復活が信じられなくて、エルサレムから離れてエマオへ行こうと、二人の弟子が論じ合いながら歩いていきます。

すると、そこに復活されたイエス様が近づいてきて、一緒に歩き始められました。大変ありがたいことです。

しかしおもしろいことに、二人の弟子は、それがイエス様だと気づきません。

「二人の目はさえぎられていて、イエスだとは分からなかった。(ルカ24:16)」

おもしろいのは、この「さえぎられた」という言葉は、「保持していた、固執していた」という意味もある言葉です。

自分の小さな「こだわり」をかたくつかんでいる、という感じです。

彼らがこだわっていたのは、こんなことでしょうか。十字架で殺された人が救い主だなんて認められない・・。復活なんて馬鹿げたことがあるはずがない・・。

極めて狭い視野で、小さい器の中での自分の考えにこだわるから、復活のイエスがそこにいても見えないのですね。

私たちも、いつも何かの「こだわり」をかたくなに握りしめてはいないでしょうか。

自分はこうやって生きてきた、結果を残してきたというプライドは、手放すのはこわいですね。それを失ったら、何もなくなってしまうような気もする。

自分の傷やトラウマが「こだわり」になってしまっている方がいますね。それは大変につらいことでしょう。

色んな「こだわり」があると思います。いずれにしろ、何かにかたくなにこだわっている間は、目はさえぎられているのだということが、「エマオ途上」の物語から分かります。

明日、また続きを分かち合いましょう。


共に祈りましょう。

主よ、知らず知らずのうちに、いくつものこだわりによっておおわれて、私の心は鈍くなってしまっているのでしょうか。主よ、砕いてください。恵みを十分に受け取れるように、私を砕いてください。
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