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2016. 06. 29  
昨日に続いて、ルカ24章の「エマオ途上」のくだりを考えましょう。

イエス様の復活が信じられないで、エルサレムから離れていく二人の弟子。そんな彼らに、よみがえられた主イエスが近づかれるのですが、彼らはそのことにさっぱり気づかない。

それは、彼らの目がさえぎられていたからでした。「さえぎられる」これは原語では、小さなこだわりに固執しているという意味も持つ語です。

十字架による罪の赦し、そして復活・・そんなマンガみたいなことがあるわけない。

私自身もそのように、小さく貧困な「私」という枠の中で、イエス・キリストの救いを手軽に扱って、笑ってみようとしました。

でも、古より伝えられてきた救いの物語のスケールは、ちっぽけな「私」を超えてはるかに大きいのです。

神様のご計画は、「私」が考えているよりも、ずっとずっと大きかったのです。

私は、そんな風にして打ちのめされ、「私」を砕かれました。それは幸せなことでした。自由になったからです。


「エマオ途上」の物語においても、二人の弟子は、イエス様からそのことに気付かされます。

「そこでイエスは言われた。ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。(ルカ24:25-26)」

このようにしてイエス様は、彼らの「心の鈍さ」を鋭く指摘します。イエス様は、こういうところは容赦ありません。ダメなものはダメです。

そして、その後、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、ご自分について書かれていることを説明された」とあります(27節)。

聖書を、丁寧に教えてくださったのです。そして、聖餐をくださいました。その時、彼らの目が開かれたのです(31節)。


共に祈りましょう。

主よ、物分かりが悪く、心が鈍く、聖書に示されていることを信じようとしない私たちを赦してください。本気で分かろうともしていないくせに、分からない分からないとあなたに文句を言ってばかりいる「私」に気付かされます。主よ、救いを分からせてくださって、「私」をくだいてください。
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