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2017. 04. 11  
今週は教会の暦では、受難週になります。イエス様が十字架であじわわれた苦しみの意味を思い巡らしながら、Ⅰコリント1章を読んでいました。

「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(Ⅰコリント1:23-25)」


聖書の神を信じて歩んできた「ユダヤ人」たちは、この罪の悲惨に満ちた世界になぐさめをもたらす「救い主=メシア」を待ち望んでいました。

しかし、それは決して十字架にかけられるような方であるはずがないと、だれもが思っていました。

十字架は、当時のローマ帝国における極刑であり、最も辱められた死でした。

そして、ユダヤ人にとってはなお特別な意味があります。「木にかけられた死体は、神に呪われたものだからである。(申命記21:23)」とあるように、十字架にかけられた死体は「木にかけられた死体」であって、「神に呪われた死体」だと考えられたからです。

だからこそ、イエス様の敵対者たちは、イエス様を十字架にかけることを熱望したのでした。


聖書の神を知らずに歩んでいる「異邦人」にとっても、十字架にかけられた者が救い主であるなどというのは、愚かな話だと思われました。

今は十字架は、きれいなアクセサリーにもなっています。

しかし、当時のローマ社会では、そんなことはありえない。十字架は、誰もが忌み嫌うしるしでした。きっと、子どもがいたずらで、木をクロスさせようものなら、親は血相変えて怒ったことでしょう。

十字架は、決して美しいものではないのです。呪いのしるしでした。

イエス様は、その呪いの死を引き受けてくださって、そこからよみがえってくださいました。その時から、私たちにとっての十字架の意味が変わったのです。



共に祈りましょう。

十字架の主イエス・キリストの父なる神よ、私たちの世界は今も悲しみに満ち、不法がはびこり、心がいよいよ荒んでいきます。しかしあなたが、この病んだ世界に十字架を打ち立ててくださったこと、そこでキリストがすべての呪いを引き受けてくださったことを、改めて覚えています。今日の日、おのれの罪と世の暗闇にのみこまれることなく、十字架の主を見上げて歩むことができますように。助けてください。
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