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2015. 07. 09  
コヘレトの残した教えの中で印象的なのは、どれほど快楽を味わっても幸福にはなれないというものです。

彼は、人生の空しさを忘れるために、「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう」と考えます。

「・・・この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた。(コヘレト2:3)」

このように考えて、酒に女に金銀財宝と、この世の「快楽」を味わいつくしました。王様であるがゆえの、やりたい放題です。

遊んでばかりいたわけじゃなく、できる男として、一大事業に取り組んだことも書かれています。

そんな風にして、仕事やレジャーの喜びという「愉悦」もたっぷり味わったのでした。

しかし、その結果は、「見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない。(2:11)」という寂しいものでした。


彼が求めていた幸福とは、物質的なものではなかったようですね。そういうものは、すべて手にしたのですから。

彼が求めていたのは、もっと魂のことだったのでしょう。

自分の魂の深い深いところに確信を与えてくれる霊的な喜び。それは自分の存在の意味を知ることであるかもしれない。

そういうものは、太陽の下では得ることができないと断言するのは、太陽の上におられる方を、さりげなく指差すためなのでしょう。


共に祈りましょう。

太陽の上におられる大いなる主よ、太陽の下のことばかり思い巡らす私たちの不自由さを砕いてください。あなたに従う道において「幸い」があるとの約束に生きさせてくださって、貧しい心を豊かに満たしてください。
2015. 07. 08  
なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい・・・。

今までこつこつ積み上げてきて、せっかくここまで来たけど、もうすべてがどうでもいい。

自分の無力を思い知らされて、あるいは自分のダメさを思い知らされて・・。

精神力の強い人なら、この程度の困難は乗り越えていくはずなのに、自分にはできない。

どうしたらいいか分からなくて、本当はただ逃げているだけなのに、もう疲れたなどと同情を求めるばかりで、でもそういう自分の情けなさを、自分が一番よく知っていて・・。

そんな風に思ってしまう時が、皆さんにはないでしょうか?


コヘレトに合わせて口ずさんでみました。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい。」

不思議に、気持ちが楽になりました。

しばらくすると、内なる聖霊が、問いかけてくださいました。「言いたいことは、それでおしまいかい?」と。

「いえ、まだ続きがあるのです」と言えたこと。これは自分の中からは出てこない言葉でした。まぎれもなく、神の力によることでした。


共に祈りましょう。

主よ、今、困難に立ちすくんでいる者がいましたら、憐れんでください、助けてください。太陽の上に輝く、見えない光をもって照らしてください。あなたが共に戦ってください。
2015. 07. 07  
先の日曜日には、コヘレトの言葉1:2を分かち合いました。

「コヘレトは言う。なんという空しさ。なんという空しさ、すべては空しい。」

・・・夢も希望もないような言葉ですが、この言葉に共感を覚えるという方がたくさんいるようです。

この言葉は、神様が私たちの心に寄り添うために、差し出してくださっている言葉です。

私たちのすべてをご存知の神様が、私たちの心の中にある思いを代弁するかのように言葉を差し出してくださっています。

しかし、「すべては空しい・・」と人生を投げやりに過ごすことが、神の御心であるわけではありません。

「空しく思えてしまうよね・・。でもこっちを見てごらん」と、神の大らかな愛を信じる信仰の光の下へと私たちを招いてくれるのが、コヘレトの言葉です。

太陽の下で起こるすべてのことは空しいかもしれない。

でも、大いなる神は、太陽の下ではなく上におられるのです。


共に祈りましょう。

主よ、人生の空しさ、苦しさ、はかなさに、私たちがのみこまれてしまうことがないように、今日もあなたを見上げさせてください。あなたが共に歩んでください。信仰の光の下に導いてください。
2014. 03. 12  
マレーシア航空の飛行機は、行方不明になったまま、依然として痕跡が見つかっていない模様です。

私には他人事に思えません。私もまた、まったく同じように、あの日、クアラルンプールから、マレーシア航空の飛行機で帰国したからです。

しかも、私たちの飛行機が飛び立ったのは、あの行方不明機が飛び立つ、わずか1時間前です。

ひょっとすると、私たちが食事をしたあのレストランにいた東洋人の中に、行方不明になった方々がいるかもしれない・・。

そう考えると、「私は守られた」と手放しに喜ぶ気には到底なれません。

三年前の震災の時もそうでした。

どうして私は生きていて、あの人たちは死んだのだろう・・。そんなことばかり考えていました。

コヘレトはこのように言っています。

「わたしは知恵を深めてこの地上に起こることを見極めようと心を尽くし、昼も夜も眠らずに努め、神のすべての業を観察した。まことに太陽の下に起こるすべてのことを悟ることは、人間にはできない。人間がどんなに労苦し追求しても、悟ることはできず、賢者がそれを知ったと言おうとも、彼も悟ってはいない。(コヘレト8:16,17)」

神のなさる業の一つ一つの意味を悟ろうとしても、うまくいきません。

分かるのは、「私は今日生かされている」という事実です。

そして「神は独り子をお与えになったほどに、世を愛しておられる」という真理も揺るぎません。

ですから、今日もいつものように神の愛を信じ、私に与えられた一日を、一生懸命生きたいと思います。


共に祈りましょう。

主よ、今悲しみの中にある方々、不安に襲われている方々が、よりどころを得ることができますように。今日私たちにどんなことが起ころうとも、あなたが共にいて、道を支えてくださいますように。
2013. 12. 31  
今年最後の一日です。1月1日から今日にいたるまで、一年間、皆さんと共に御言葉の黙想を継続することができ、本当に感謝しています。

一年の恵みをあれこれ思い巡らしていましたら、この御言葉が心に浮かびました。

「神のなされることは皆その時にかなって美しい。(コヘレト3:11口語訳)」

その前には、有名なコヘレト3:1-8があります。

「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」と、人生のいろいろな「時」が数えられます。

生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時


この一年・・・、新しい歩みを始めた方もいれば、病が与えられた方もいらっしゃいます。

個人的には、色んなことが思うようにならないで、欠けを覚えて「嘆く時」もありました。

でも神は、その一つ一つの苦悩を通し、私を打ち砕き、より繊細な霊的感性を育んでくださいました。

まことに、神のなされることは皆、その時にかなって美しい・・・。

振り返れば、一秒ごとが愛おしい。

2014年に生きることを赦されるならば、また一秒ごとをいつくしんで、主イエスと共に、そして皆さんと共に、歩んで行きたいと願います。



共に祈りましょう。

時を生み出し、時を支配される主よ。はじめを与え、終わりをもたらされる、大いなるあなたの手の中で、2013年の歩みをゆるされたことを感謝します。この一日、大切に時を過ごしながら、あなたの尽きせぬ恵みを数えさせてください。


プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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