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2013. 05. 11  
レビ記11章には、細かな食物規定が記されています。

食べていいものといけないものが区別されています。

新約時代にあっては、もはやこの食物規定は意味をなしません(使徒言行録11章のペトロの幻を参照)。

しかし旧約時代には、毎日毎日の食事が、「聖なる者」としての自覚を磨く訓練でした。


「わたしはあなたたちの神になるために、エジプトの国からあなたたちを導き上った主である。わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい。(レビ11:45)」と、神は言われます。

実は「聖」とは自明ではなく、ここでも、清いものと汚れているものの線引きは、よく分かりません。

しかし大事なことは、聖なる神が「聖である」と定めることに、ただ忠実に聴き従っていくことなのでしょう。

そこに、神の聖にあずかる道が開けるのです。

私たちは今、聖なる神が「聖である」と定めてくださった本を手に取っていますね。

他の本ではなく、この聖書から毎日毎日の霊の糧を得るなら、聖への道も必ず開かれることでしょう。


共に祈りましょう。

聖なる主よ、今週もここまでの歩みを導かれて感謝します。イエス様のように自由に、のびやかに、聖なる者として生きることにあこがれます。どうか主よ、今日も聖化の恵みを豊かに与えてください。
2013. 05. 10  
レビ記10:1,2「アロンの子のナダブとアビフはそれぞれ香炉を取って炭火を入れ、その上に香をたいて主の御前にささげたが、それは、主の命じられたものではない、規定に反した炭火であった。すると、主の御前から火が出て二人を焼き、彼らは主の御前で死んだ。」


ショッキングなことが書かれています。

新米祭司のナダブとアビフが、神の「規定に反した炭火」を用いるというミスを犯したゆえに、裁きの火により死んだのです。

あまりにも厳しく思えますが、これは「主が聖なることを示す」ために必要でした(3節)。

神は、ふさわしく崇められるべき聖なる方です。

神の御心にかなわぬ方法で、人間が自分勝手に礼拝をささげることをゆるされません。


とはいえ、私たちにとって、何が聖で何が俗かは、自明のことではありません。

今や神は、詳細なルールを与えてくださった旧約時代から進んで、私たちの心を見られています。

ルール通りにやれば大丈夫などという発想は捨てるべきです。

問題は、私たちがどこをスタートに設定しているかです。

自分はこうしたい、ああしたいと、自分を起点にして考えていっては、どうもダメそうですね。

聖なる神に触れる、あの言葉にならない愉悦と安息を味わうために、ふさわしい起点はどこでしょうか。


共に祈りましょう。

聖なる主よ。本当ならけっして近寄ることのできないあなたに、今日も親しく近づくことのできる幸いを感謝します。聖なるあなたが望んでおられることを、はっきりと見分け、そのように行う力を、今日の私たちに与えてください。
2013. 05. 09  
「モーセとアロンは臨在の幕屋に入った。彼らが出てきて民を祝福すると、主の栄光が民全員に現れた。そのとき主の御前から炎が出て、祭壇の上の焼き尽くす献げ物と脂肪とをなめ尽くした。これを見た民全員は喜びの声をあげ、ひれ伏した。(レビ9:23,24)」
 

レビ記9章は、新米大祭司アロンのリードによる、初めての「礼拝」の記録です。

主の栄光が現れ、主の前から炎が出てなめ尽くしたという、恐るべき光景が記されています。

この炎は、裁きの炎を思わせずにいません。民の間に恐怖のどよめきが満ちたでしょうか。

しかし、聖書が記すのは、むしろ「喜びの声」があがったということです。


主の栄光を目の当たりにする時、私たちの心には、人知を超えた平安が満ちます。

そして、どれだけ苦悩に沈んでいようと、喜びの声をあげずにはいられなくなるのです。

それは、「礼拝」の場で起こる出来事です。

そして「礼拝」は、日曜日だけ行うものではありません。

今日私たちが、神を見上げ、昨日までの罪の悔い改めと、今日からの新しい服従の心をもって一日を過ごすなら、それはまさしく「礼拝」です。

その「礼拝」の一日に、必ず主の栄光が現され、人知を超えた喜びが与えられるでしょう。


共に祈りましょう。

大いなる主よ、あなたの恐るべき御力と御栄光をあらわし、あなたが生きておられることを、今日も私たちにお示しください。そして私たちの心を、高く広く大きく、引き上げてくださり、人知を超えた喜びで満たしてください。主よ、今日もあなたを信じ、従い歩みます。

2013. 05. 08  
レビ記を読むのはなかなか気が進まないという方は多いのでは?

今日は8章です。「モーセがもう一匹の雄羊を任職の献げ物として引いて来させると、アロンとその子らはその頭に手を置いた。モーセはそれを屠り、その血の一部を取ってアロンの右の耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗った。(22,23節)」



アロンたちの右耳、右手の親指、右足の親指には、いけにえの血が塗られました。

祭司として任職されるために、「主の声がよく聞こえるように、主の業に励めるように、主の道に歩めるように」と、耳と手と足がきよめられたのです。

新約時代の今には、特別に任職された祭司は必要とされません。

今やすべての者が、祭司のように、神に直接近づくことができます。

同時に、今や私たち全員が、主イエスの十字架の血によってきよめられた、新しい耳と手と足による、新しい生へ召されています。

「あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの血によるのです。(Ⅰペトロ1章18,19節)」


共に祈りましょう。

主よ、私たちは、キリストの尊い血潮によってきよめられ、今より後、新しい人として生きよと招かれていることを感謝します。今日も、祭司のように、あなたに忠実に仕え、また隣人のためにとりなしの愛を注ぐことができますように。
2013. 01. 12  
今週は、「腹を立ててはならない。兄弟にバカと言ってはならない」というイエス様の教えに深まってきました。

この教えの背景にはきっと、レビ記のこんな言葉があると思います。

「心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。

復讐してはならない。民の人々にうらみを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。(レビ19:17-18)」


同胞を率直に戒めなさい、という言葉に心惹かれます。

心の中で愚かだと見下したり、「あの人とはもう無理・・」と見切りをつけるのでなく、

「あなたのそこが悪いところだ」と、責任をもって戒めていく。

それは「バカ」という侮蔑とは対極の、人を建て上げるための言葉です。

でも、本当の愛が伴ってなければ、そういう戒めは成立しないでしょう。

大変難しいことと思いますが、人を殺すのではなく、生かすための率直な戒めを、語れるようになりたいと願うものです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちは隣人に対して、あまりにも無責任なのかもしれません。どうか私たちが互いの成長のために、ふさわしい戒めを語りあうことができるように、知恵と、何より愛を満たしてください。
プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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