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2018. 11. 27  
今週は「天国人のボキャブラリー」シリーズです。

クリスチャンに独特の言葉遣いを天国人のボキャブラリーとして紹介していますが、今日取り上げたいのは「御心ならば」という言葉づかいです。

これは、お祈りをする時に用いられます。「御心ならば、この願いをかなえてください」という風に祈るのです。

初めて聞いた時は、何と奥ゆかしいことかと思いました。

御心、すなわち神様のお考え、思いにかなっているなら、というこの感覚。これは、以前の私にはまったく無いものでした。

クリスチャンではなくても、お祈りということはなさると思います。

何に対して祈っているのかなどあまり考えず、何となく神様的なものにむかって、自分の願いをかなえてほしいと願う。

私自身もそういう風にして、家の神棚に向かって祈ったこともあります。

でもそれはあくまでも、自分中心の願いです。それをかなえてほしいという一辺倒です。

それがかなえば、神様はいると信じる。かなわないなら、やっぱり神も仏もないと馬鹿にする。そういう考えしかもてないものでした。

でも、教会でなされている祈りとは、それとは全然違っていたのです。


これは、イエス様の祈りにならうものでもあります。

イエス様は十字架にかけられる前の夜、その苦しみに耐えかねて、ゆるされるなら十字架の死を免れさせてくださいと、神に願われました。

救い主として、すべての罪人の身代わりとなって死ぬという使命から、逃れたいと願われたのです。

しかし、「わたしの願いではなく、御心のままに行ってください(ルカ22:42)」と祈られました。

こういう感覚が、私には非常に衝撃的だったのです。


共に祈りましょう。

主よ、今日もわたしたちの願いではなく、あなたの御心がなされますように。あなたのもとに、私の幸いがあり、喜びがあると信じます。私たちのために最善なことを備えてください。あなたにすべてをお委ねします。
2018. 06. 06  
天国人のボキャブラリーシリーズ、とりあえず今回は今日でおしまいです。

「執り成す」という言葉を覚えましょう。

誰か他の人のためにお祈りをする時に、「執り成しの祈り」をするという風に言います。

心配している誰かが今日も神様によって守られますようにという様な祈りも、執り成しの祈りです。

でも、執り成しというのは本来、敵対関係にある両者を仲直りさせるという意味があります。

神様から心が離れてしまっている人や、まだ神様を知らないで道を見失っているいる多くの人々、あるいは、快楽だけを追い求めて好き放題している人々のために、

「神よ、彼らをお赦しください。彼らがあなたのもとに帰ってきて、平安を覚えることができますように」と祈る。執り成すというのはそういうことです。

そしてそれは、イエス様が私たちのためにしてくださったことです。

イエス様は十字架にかけられながら、その十字架の上で、私たちのために執り成しの祈りをしてくださいました。

「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈ってくださいました(ルカ23:34)。

今も、イエス様は執り成し続けていてくださいます。

彼らをお赦しくださいと、愚かな私たちのために祈っていてくださいます。

この祈りによって赦された私たちだから、私たちも、誰かのために執り成しの祈りをしたいのです。


共に祈りましょう。

主よ、慈悲深い父よ、どうかすべての放蕩息子たちをお怒りにならず、御赦しください。そして、あなたのもとに帰って来て、真実の生の喜びと平安を得ることができますように。
2018. 06. 05  
天国人のボキャブラリー、あと2回分お付き合いください。

「交わり」なんていう言葉も、独特の言葉遣いだと思いますが、みなさんはどう感じますか?

教会の仲間同士で親睦を深めるために、語り合ったり、一緒に食事をしたりする時に「交わりを持つ」という風に言う。

私自身は最初の頃、「なんだ?交わりって?」とおもしろく感じてました。もちろん、一般的にも交流・交際といった意味で使われている言葉ではあると思いますが、教会の独特の言葉遣いではないかと思います。

そういう「交わり」ということが、教会では色んな機会に大事にされますが、そのことの好き嫌い、得意不得意というのは人それぞれあると思います。

でもどちらにせよ、教会の「交わり」っていうのは、そんなに軽いものじゃないということは覚えていたいと思います。

人付き合いは苦手だからと避けていいものではないし、ただの友達のおしゃべりコミュニケーションでもない。

教会の「交わり」は、キリストを信じ、キリストに従う一人一人の、日々の信仰の戦いを、互いに支え合い、励まし合うための作戦会議であり、祈りの交流です。

「互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように(ヨハネ15:12)」とイエス様は言われます。

キリストの十字架の愛が映し出されるような、「交わり」がほしいですね。


共に祈りましょう。

主よ、あなたに与えていただいた信仰の友たちを想い、感謝します。彼ら彼女らの存在が私の励ましであるように、私もまた、だれかを励まし、支えることができますように。キリストへの信仰によって結ばれた私たちが、信頼関係を深めることができますように。
2018. 06. 01  
天国人のボキャブラリー、「賛美する」というのもそうですね。

教会で「賛美」といえば、神様はすばらしい方だとほめたたえることです。

より実際的には、「賛美歌を歌う」ということとイコールでもあります。

教会というのは、よく歌を歌うところです。葬儀の場であっても、いつもと変わらずみんなで歌を歌います。それは神様への賛美の歌です。

天に召された兄弟姉妹の地上の生涯に寄り添い、慰め励まし続けてくださった神に感謝をして、神よ、まことにあなたはすばらしいことをしてくださったと、喜び歌うのですね。

それは確かに常識外れでしょうが、希望の人であるクリスチャンの極めてユニークな特質だと自負しています。

私はしばしば祈ります。嘆きとため息に満ちているこの口から、賛美があふれだすように、この心を引き上げてください、と・・。

いつでも、賛美を口ずさみ歩みたいですね。

苦しいときも悲しいときも。

どんな時でも、私たちは賛美ができます。

それは、神と共に生きる、永遠の命の希望を見つめているからです。

だから、いつも賛美します。その賛美の歌によって、この貧しい心が守られるのです。

賛美することで、この心が変えられていくのです。


共に祈りましょう。

主よ、あなたは私に賛美の心を与えてくれました。それは私にとって、革命的な出来事でした。主よ、あなたはすばらしい。あなたは私に、なにひとつ悪いことをなさらなかった。主よ、今日もお守りください。愛するすべての人々に、恵みと慈しみが限りなくありますように。
2018. 05. 31  
天国人のボキャブラリー、今日は「憐れみ」という言葉、特に「憐れんでください」という祈りを紹介します。

聖書には「主よ、わたしを憐れんでください」という祈りが何度も出て来ます(詩編6,9篇、マタイ17:15など多数)。

これがどうも分からない、自分はこのようには祈りたくないとおっしゃる方がいました。

憐れみを受けるなどというのはまるで物乞いのようで、ちょっと惨めすぎると言うのです。

他方で、本当に苦しい時には「憐れんでください」としか祈れないと、教えてくださった方もいます。

これまでの人生でたくさんの試練を味わってきたけど、もう祈ろうと思っても言葉にならない。ただ『憐れんでください、主よ、憐れんでください』としか祈ることができない時があるのですと、教えてくださいました。


「憐れむ」、それは、私たちの痛みを御自分の痛みとして、はらわたがちぎれる思いでもって近寄ってくださり、助けてくださるイエス様の感情を表している言葉でもあります。

そのようにして憐れんでいただくよりない惨めさを、私たちは誰もが、抱えているのではないでしょうか。


いっしょに祈りませんか。

憐れんでください。主よ、憐れんでください。惨めな私を憐れんでください。心乱れて、眠れなかった私を憐れんでください。今日も気が重い私を憐れんでください。主よ、憐れんでください。主よ、声にならぬ祈りを聞いて下さい。主よ、主よ・・・。
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勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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