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2017. 12. 28  
今日は午前中に、長老任職準備会がございます。候補に立てられた兄弟の学びと備えのためにお祈りください。教会員の一致した祈りが必要です。

新しい長老、また執事の候補者が備えられたことは、今年私たちの教会に与えられた最大の祝福と言っても過言ではないと思います。

それぞれに主からの召しに応答して、恐る恐ると、でもほほ笑みながら、新しい歩みに踏み出そうとしておられます。

改めて思いますのは、主は本当に、一人一人の個性を生かして、教会を建て上げていかれるということです。

イエス様の12弟子がそれぞれ個性豊かであったように、私たちの教会の長老・執事も個性豊かです。

それぞれに得意なこともあれば、苦手なこともあります。

Ⅰコリント12章に示された、キリストの体のたとえを思い出します。それぞれの部分が、それぞれの役割を担って、体を形成していきます。

成長させてくださる聖霊の導きは多様で色鮮やかです。理想のモデルはひとつだけじゃありません。

自分にはどういう役割が与えられているだろうか・・と、役員だけでなく、みんなで考えたいことです。


また、賜物というのは、与えられる量がそれぞれに違うということも、健全に自覚しておきたいものです。

マタイ25章のタラントンのたとえにありますように、5タラントン預かる者もいれば、1タラントンだけ預かる者もいる。

そこには差があるのです。それは、優劣ではなく、神様から与えられている役割の違いです。

預けられている能力が違うから、仕事の量や成果においても、違いが生じるのは当然です。でも、そこに優劣を見出すべきではない。

大事なのは、その人が、主に忠実であったかどうかだけです。

タラントンのたとえでも、主人は僕たちの生み出した成果の大きさの違いなど、少しも目を留めていません。

自分に与えられた能力の分をわきまえて、最大限に用いられるように、なまけずに仕えていく。

そうすれば、「忠実な良い僕だ」と主はほめてくださいます。そして、天に約束されているものは、あまりに豊かです。


共に祈りましょう。

主よ、私たちの教会に多様な賜物をもった長老・執事を与えてくださっていることに、あなたの教会への愛を強く覚えます。本当にありがとうございます。今、3人の方々が任職に向けて準備しておられます。主よ、どうか助けてくださって、あなたに忠実な心を備えてください。


2017. 09. 06  
今、説教の学びとしてウィリモンというアメリカの有名な神学者の本を読んでいます。

彼が言うには、アメリカにおける最近の流行の説教は、「幸福な人生を過ごすための知恵を与えるもの」です。

それが、人々の聞きたいことだからです。そういう教会には人が集まります。

しかし、そうしたアドバイスのほとんどは、キリストの教会じゃなくても与えられるものだと、彼は嘆いています。

どうしてそこに、わざわざ主イエスの名前を持ち出す必要があるのか・・。

聖書を読む限り、主イエスは、私たちがこの地上でハッピーに過ごせるかどうかには、ほとんど関心がないように思えるのだが・・と。


アメリカは、すでにキリスト教国という内実を備えてはいません。忠実にイエス・キリストに聞き従おうとする人は、ごく少数です。

しかしウィリモンという人はおもしろい。彼の説教は「他の人と違ったことをしよう。主イエスに従う、へんてこで特殊な存在になろう」というものです。

ほかの人と同じことをしていてもおもしろくない。主イエスに従おう。ほかの人のことなんかどうだっていいじゃないか。

だって主イエスは、「狭い道を行こう」と招いてくださったからです。

「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。(マタイ7:13)」


私自身、ややひねくれた若者でしたが、キリスト者として歩もうと決めた時に、「この道こそ、一番の変わり者の道だろう」と考えていたことを思い出しました。


ともに祈りましょう。

主よ、あなたの御名があがめられますように。御国が来ますように。あなたの御心が、この地上になりますように。わたしたちの心が、あなたの御心に沿うものとなりますように。どうか私たちが、イエス・キリストという真理の道を、歩んでいくことができますように。
2017. 09. 05  
一か月ぶりに再開いたします。6年目のシーズンに入ります。

「日々の御言葉」というよりは、「日々の祈り」というほうがふさわしいかと、思うようになりました。

牧師として、御言葉に導かれつつ、主の栄光のために祈り、みなさんのためにとりなす。その営みを、文章にとどめているものです。

そのような牧師の祈りと、心を合わせていただけたら幸いです。



さて、そのような思いで今、みなで真剣に祈りたいのは、平和の祈りです。

北朝鮮を巡って軍事的緊張が高まっています。先のJアラートが鳴った際、わたしは茨城でキャンプ中で、学生たちとともに飛び起きて、一時避難を模索したものでした。

危機感をあおろうとしている政府の策謀ではないかとも言われます。

でもそんなことはどうでもよくて、大げさであろうとも、いや大げさなまでに、私たちキリスト者はいつでも真剣に、世の闇と人間の罪の深刻さを見つめ、そして、神の御心である「平和」を求めて祈るという義務があります。


主の祈りを思い出しています。

「だから、こう祈りなさい。天におられるわたしたちの父よ、御名があがめられますように。御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも・・・。(マタイ6:9)」

主は、祈りに向かうときに、わたしたちの身近な必要からはじめないで、生ける神と、その要求に直面することから出発するように教えてくださいました。

神の愛と平和に満ちた神の国=神の御支配がすすむのを、必死になって邪魔するような人間の罪深さがあります。

ひとりの為政者の圧倒的な悪意があります。ゆるされるべきではないものです。また、その暴発がないようにと祈るものです。彼の存在が、たくさんの貧しい人々を苦しめていることにも怒りを覚えます。

同時に、これはひとりの人間の問題ではない。わたしたちすべての罪はつながっています。


「神の御名があがめられますように。御国がきますように。あなたの御心が、この地上になりますように。」

私たちが願い求めるのは、せいぜい自分たちの安全であり、世界の破滅からの救いでしょう。

しかしもっと深く、すべての人が、生ける神の前で悔い砕かれ、真に、神の御心がなるようにと・・。わたしたちではなく、神の御心がなるようにと求めることへと、主の祈りは導いてくれるのです。


共に祈りましょう。

主よ、このような状況を生み出してしまったわたしたち人類の罪をゆるしてください。どうか、あわれんでください。今、それぞれの国の安全のために、為政者たちも必死に努力していることと思います。どうすればこの状況を打破できるのか、わたしたちは手詰まりです。主よ、あなたの御心がなりますように。

2017. 04. 12  
昨日から一般メディアでも大きく取り上げられるようになりましたが、アメリカが北朝鮮に向けての軍備を進めています。

状況の深刻さはよく分からないところがありますが、北朝鮮の暴発などで、何があってもおかしくないという心配が強くあります。

戦争が回避されるように願う祈りをあつくすると共に、これから先、どのような悲惨が待ち受けていても、罪と闇にのみこまれてしまわないための信仰の覚悟が、私たちに求められています。

そのためにずっと祈ってきた中で、与えられた御言葉は、マタイ24:6とⅠペトロ5:8です。


「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞くだろうが、慌てないように気をつけなさい。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。・・・これらはすべて産みの苦しみの始まりである。(マタイ24:6-8)」

イエス様はこのように予告されました。あなたたちは「産みの苦しみ」を経験せねばならないと。

それは、イエス様が十字架で苦しんだ後に復活の栄光に入られたように、永遠の慰めの完成に至るためにくぐりぬけねばならない苦難です。

神がどのように歴史を導こうとしておられるのか、それは私たちには分かりません。分かるのは、人類の深刻な罪が、いつも邪魔をしているということです。

その罪ゆえに、あらゆる悲しみが生じてきます。

しかし神は、そのような人類の罪深さをも受け入れながら、永遠の慰めの完成に向けての計画を進めていかれます。希望はいつもそこにあります。

神は、だれよりも悲しんでおられます。そして、苦しんでおられます。私たちが苦しむ時に、だれよりも神が、主イエスが苦しんでおられます。それが十字架の苦しみです。

しかしその苦しみは、「産みの苦しみ」です。必ず希望の朝に通じる苦しみです。

だから、「身を慎んで目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを悔い尽そうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。あなたがたと信仰を同じくする兄弟たちも、この世で同じ苦しみに遭っているのです。・・・しかし、あらゆる恵みの源である神、すなわち、キリスト・イエスを通してあなたがたを永遠の栄光へと招いてくださった神御自身が、しばらくの間苦しんだあなたがたを完全な者とし、強め、力づけ、揺らぐことがないようにしてくださいます。力が世々限りなく神にありますように。アーメン。(Ⅰペトロ5:8-11)」


主よ、十字架の主よ、あなたの憐れみをひたすらに祈ります。すべての国々のために、北朝鮮や韓国の兄弟たちのために祈ります。
2016. 12. 30  
今年一年を振り返っての、極めて個人的な証しになることをご容赦ください(ちょっと長いです)。

今年私は、自分の存在の小ささということを、ようやく受け入れることができつつあるように思っています。

私には、クリスチャンになる前からずっと、自分が何一つ達成しないままにいつも逃げ続けているという負い目があります。

私は、これ以上はもう無理だ・・というところまで、努力したことがありません。

だからこそ、その達成感を味わいたくて、牧師としてフル稼働しながらの大学院という挑戦をも始めました。でも、残念ながら、やればやるほど、「もっとやれるはずなのに、自分は手を抜いている」という負い目ばかりが募ってきます。

その根底にあるのは結局、劣等感でもあるのです。あの人はあんなにすごいのに、自分はだめだ。こんなことしかできない・・・という思いです。

だけど、もうそんな風に考えるのはやめようと思いました。

自分で自分が納得できるまでがんばろう、などというのは、傲慢なことだと分かりかけてきました。


今年洗礼を受けた一人の若者が、マタイ25章のタラントンのたとえの説教をきっかけに、洗礼を決断したと教えてくれました。

あのたとえの中で教えられていることは、それぞれに主から与えられている能力には差があるし、仕事の成果にも差が出てくるということです。

でも、僕たちはそれぞれおごりもせず、ひがみもせず、決して無理することもなく、自分に与えられたものを適度に用いて、主人の喜びに仕えました。

そういう僕たちに対し、神様はそれぞれに同じ言葉をもってほめてくださり、同じ褒美をくださいます。

5もうけたか、2もうけたかなんて小さな違いは、神様にとって問題じゃないのです。それぞれの人生に忠実に取り組んだかどうかだけが問題です。そうすればまったく同じように「多くのもの」が与えられるのです。

こういう教えに感動し、自分の人生を主にあずけようと思った若者がいるのですね。

私は、そういう教えを彼に伝えるために、神様から用いられたのです。この小さな者が用いていただけたのです・・・。なんと素晴らしいことかと思いました。

私もまた、この教えに生きたいと思いました。

主に与えられた能力を忠実に用いて、主に与えられる出会いを大切にし、ただただ主の憐れみと助けによって、主からの召しに取り組んでいく。

そして、主が肯定してくださる自分自身を肯定し、主に生かされた毎日を受け入れていく。

そのように生き、死んでいきたい。そんなことが、分かりかけてきた2016年でありました。


共に祈りましょう。

主よ、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。(ローマ14:8)」

あなたのものとしていただいた、この身の幸いを覚えます。この一年を、あなたの大きな手の中で、歩ませていただいて、がんばらせていただいたことを本当に感謝します。すべてはあなたの恵みによるものです。主よ、感謝します。

プロフィール

勝田台の牧師

Author:勝田台の牧師
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